西薗良太選手引退の報道に接して 高校時代の所信声明を再掲
ブリヂストンアンカーの西薗良太選手が、2017年を最後に引退するという。
(アンカーニュースのURLは下方)


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(2009年全日本選手権@広島)


東大出のライダーとして脚光を浴びつつ、チームを渡り歩き、時に活動から遠ざかったりしながらも、特に全日本TTで輝いた西薗選手。

お疲れ様でした。

思い返せば西薗選手(当時は西薗君)との最初のコンタクトはまだ彼が高校生のころ。

受験勉強中の西薗君が本サイト(当時はブログ機能のない見かけがブログっぽいHP)宛てに送ってくれたメッセージを久々に再掲しつつ、13年の月日をかみしめることにする。

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2004年12月31日付け西薗良太君からのメッセージ:


ここ数年いつも見させてもらっている鹿児島の高校生です。僕はロード乗りで
毎日最新の自転車話やNacoさんの日常を楽しく読ませてもらっています。

今日のダイアリーになんだかジーンとくるものがありました。

僕は来年受験生ですが、楽しく自転車に乗りながら社会をよく考える大人を目指して頑張っていきます。

一人の大人の人の本音の考えを知ることができるのは非常にプラスです。がんばってください。
よいお年を。

西薗良太

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上記で「今日のダイアリー」として触れられているエントリーは以下(こっ恥ずかしいちょっと青臭い内容だけど)


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★ 2004.12.31 (Fri)  みなさんにとって、2005年がいい年でありますように 

30日から実家に帰っている。一緒におせち料理を作り、タッパーに詰めて大晦日の夜、年越しそばを食べた後、家に持ち帰る予定。新年というのは面白い。単に12月31日の次の日なんだけど、なんか31日でいったん区切れて、新しく始められる気がする。31日の翌日、という感覚じゃなく、ちょっとリセットができる感じ。

もちろん、気のせいなんだけど、学校を卒業して新学期という恰好の機会がなくなった今、こうした年1度の心機一転の機会は大事にしたい。

この1年、いろいろな方からお便りを頂いた。オチョア兄弟事故の記事を連投したときには、自転車に乗っていたときの事故がもとで、オチョアを彷彿とさせるような大怪我を負った人からのメールもあった。メールを通じて悲喜こもごも、様々な話を耳にした。多くの人が明るい表向きの顔とは別に、様々な裏の顔をもっている。営業成績抜群、でも上司とうまくいかず、下っぱからは突き上げを食らっているサラリーマン、、とか。

かくいう私も、仕事面では、今までで一番辛い時期だったかもしれない。英国側の人員が一部変わったこともあり、先方に委託した試験が波乱万丈だった。そんなのが延々続き、今日の今日まで結果待ちだったものもある。これから夜、家に戻ってからお客さんにメールを一本打たなくてはいけない。年明け早々、問題に発展する可能性もある。

そして、自分自身の悩みだけでなく、天変地異、凶悪犯罪、犯罪の若年化、など、暗いニュースも山積みあった。単に他人事とは言えず、怒り・悲しみを感じることも。そんな中、こうして自転車レースを追いかけることは、私にとっては現実でありながら、一種仮想の世界のようでもあり、いい気分転換になる。趣味を追いかけている時、心がなごむことも多々あって、娯楽に救われることってあるんだなぁ、と。

このDiaryを見に来てくれる人の中には、自転車に興味がないけど、このページ(Diary)だけ覗いてみる、という人もいる(例えば同級生とかなわけだけど)。そうした人たちにとって、私にとっての自転車レース観戦みたいな趣味とか娯楽とかがあるのだろうと思う。新しい年も決して楽で平坦ではないかもしれないけど、そうした趣味・娯楽が清涼剤となり、力強く毎日サバイバルできるといいなぁと思います。

今年一年お世話になりました。どうぞおいお年をお迎え下さい。


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西薗選手、”楽しく自転車に乗りながら社会をよく考える大人”というかつての目標はきっとこれからもきっと目標であり続けるのでは?などと思っています。

新天地でのご多幸をお祈りしています。

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(アンカーニュースへJUMP)。
   
2017.10.18 Wed | Road Races| 0 track backs,
最新のトクダネニュース移行状況
1999年10月以降のロードレースニュース移行作業。
本日さらに2件を移行。

うちひとつは、カデル・エヴァンスの初々しいレース日記。
この時の所属チームはマペイ。
前年サエコ在籍時にジャパンカップで2位になって以来、動向を注目していたのを思い出す。

2017.10.17 Tue | Road Races| 0 track backs,
トクダネニュースアーカイブ更新情報
1999年以降のトクダネニュースをライブドアの方に移行中。
このほど更新し、2002年4月12日までのニュースを以下にアップしなおした。

この中で驚きのニュースは、ブエルタで中間スプリント賞に輝いた選手が
19歳まで砲丸投げの選手だったという話。
自分で入れておきながら、ほとんど記憶にないニュースだった。
当時スペインのDivIIのチームはベルギークラシックに出場できず、クラシック志向の彼は
活躍の場をあまり広げることができなかった。

それからマリオ・チポッリーニがパリ~ルーベを回避することを表明したとたん、
主催者ソシエテ(現ASO)が彼のチームの本レースへの参戦を取りやめた、という話。
やはりこうした「手心」や「忖度」の余地がなくなった現行システムの方が近代的、そう痛感。

http://blog.livedoor.jp/maillotblanc/

2017.10.16 Mon | Road Races| 0 track backs,
クリーノ・ツタヤ・バーでライブ
タクリーノからの告知!です。
===

まいど。
タクリーノ・ツタヤ・バーでライブありまーす。
10月21日(土)8時開演。
アメリカの体験などなど人生を旅として発信続けるアーティスト、津田圓三さんのライブです。ブルース、カントリーをユニークにシニカルに楽しく歌ってくれます。この人、タオイストとしての哲学感の素晴らしさも一興です。
チャージ無しの投げ銭ライブです。お気軽に~。
 
Tacurino-Tutaya-Bar
大阪市西成区玉出中1-14-10
090-3621-9982
定休日 月火水曜
19:00~24:00
2017.10.16 Mon | Road Races| 0 track backs,
高木秀彰フォトグラファーどうぞ安らかに
脱サラでロードレースのカメラマンになった高木さんが
自宅でお亡くなりになられたとのこと。

今朝の捜索情報から一転、悲しい結末になった。

「僕、総務のおじさんみたいなことしてたんだよ、何でも屋さん」
カメラマンに転身後、初めてお会いしたときの会話だ。

サラリーマン話に花が咲いたのを覚えている。

会社という団体から個人業になって、
これから頑張るぞ、という気概と、
守られていたものが取り払われたあとの手探り状態を感じさせる話ぶりだった。

企業人の名残が自分の中に多分まだあって、
サラリーマンである私に、何か似たような匂いを感じているかのような
そんな懐かし気な感情も混ざっていた気がした。

FBは余りマメにチェックしていない私だけど、つい最近たまたま高木さんの
素晴らしい写真を目にして「いいね」ボタンを押したばかりだった。

早すぎる死、突然のさようなら、
残念でたまらない。

宇都宮でも親切にしていただいた。
人のいい笑顔しか浮かばない。

どうぞ安らかに。
合掌。


2017.10.14 Sat | Road Races| 0 track backs,
人間が写っていなくても十分ホラーな1枚
イル・ロンバルディア。

木漏れ日に輝く秋の日の森の風景・・と思いきや、

ヤン・バーケランツのバイクが地上4mの木の梢に引っかかり、
その下には本人が・・・の図。

人間が写っていないにも関わらず、結構ホラーな1枚。

さしあたっての所見は、肋骨7カ所、脊椎2ヶ所の由。(Jump to CN)

2017.10.09 Mon | Road Races| 0 track backs,
お久しぶりのベッティーニ
アルカンシェルは伊達に着るものではないし、
さらに本文にはBettiniに敬意を表して、とあるので、 
まぎれもなくパオロ・ベッティーニに違いないのだけど
ダヴィデ・ブラマーティやアンドレア・トンティに比べて
どこかご隠居さん風情が漂って。。。


 
2017.10.04 Wed | Road Races| 0 track backs,
ランス、引退してもコンタドールを個人口撃
◆ コンタドールの提案に、ランスが侮蔑の言葉


グランツール(GT)を手玉に取るスカイ、およびクリス・フルームの快進撃は、
待望のヒーロー登場、として歓迎されると同時に、
独壇場はつまらない、そんな声も漏れ聞こえる今日この頃。

チームの戦力が時に戦況を作用するGTでは、
潤沢なスカイの予算がその勝因ともいえ、予算のチーム間格差が取りざたされている。

そんななか声をあげたのが、引退前、ブエルタ会見時のアルベルト・コンタドール。


チーム予算と、選手の年俸に上限をもうけることを提案した。

これには賛否両論出たものの、UCI関係者には同調する動きもある。
むろん年俸うなぎ上りのクリス・フルームは反対。
とはいえ発言したコンタドールを個人攻撃するようなことはしない。


ところがコンタドール個人に対して侮蔑の言葉を投げかけたのがランス・アームストロングだ。

人間に対し容赦ない様子はハミルトンの自伝にもつづられていたけれど、
引退してもなお、憎む気持ちを抑えられないとは、人間の小ささが露呈する格好。


純粋に案に対して賛否を口にする代わりに、
彼はこう述べた:

「フン、、、(現役)最後の会見ではなんでも言えるさ(言うのはたやすいさ)」



このフン、という冒頭のPfftは、相手をあざけるニュアンスが強く出る間投詞。
軽蔑の意味を露わすときに使う。


これに対し、コメント欄を読んでいくと、これまた賛否両論なのがわかる。
けれど、この件でコンタドールを非難するのはランスだけ。


中には、サラリー上限はともかく、予算上限には賛同、
といった冷静な発言も。
ランスはこれに再び反論したけど、相手がさらに意見を述べたところで無言になった。


そんな中、このほどUCIの管理委員メンバーに選出されたボブ・ステイプルトン
(元チームHTC、コロンビアのGMで、スポンサー離れでチーム解散を余儀なくされた)

フルームが、「年俸上限だなんて共産主義に向かってはならない!」と反論したのに対し、
「これこそが資本主義だ」と述べている。


チーム予算の格差は、トレーニングや装備に関する格差を生み出すだけでなく、
金持ちチームによる有能な選手の囲い込みも可能にする。

実際、ツール・ド・ラヴニールで活躍したU-23の有能選手を
スカイはまるで一網打尽といったかたちで、来季の要員として獲得している。


予算格差がレースをつまらなくしているとしたら、
現行の予算制度を再考することもありかもしれない。
少なくとも、こうして議論の種がまかれたことは悪くはない。


提案内容でなくコンタドール個人を場外から非難するランスを見ていて、
三つ子の魂百まで、という感想に包まれた。
2017.09.28 Thu | Road Races| 0 track backs,
BMC U-23チームが解散、いま育成チームが切ない
◆ ロット・スーダルとBMCに育てられたステッフ・クラスはカチューシャへ


Steff Cras(ステッフ・クラス)というベルギー人の若手がいる。
来季カチューシャへの加入が決まったと、先日一斉に報じられた。

ちょっと驚いた。
へえ、ロット・スーダルでも、BMCでもなくカチューシャとは、、と。

アマチュア選手として、クラスはまずロット・スーダルU-23チームに所属し、
次いでBMC育成チームでイロハを学んだ。

素質のある選手なので、ロット・スーダルかBMCあたりに行くのかと思ったけれど、
どちらでもなかった。


こういう状況では、BMCが育成チーム解散を決めたのも無理はない。
同じ系列チームでステップアップ、という時代ではなくなった。

代理人制度の横行による現象、と言われているけれど、
確かに私がロードレースを見始めたころは、
アシスト選手は代理人を立てていないのが普通だったのではないか。

移籍交渉が大変で、代理人どうしよう、などという話を時々聞いた。

マヌエル・ベルトランなども代理人を使っておらず、
移籍のときに右往左往していたのを思い出す。

(ちなみにベルトラン、今なにしているかというと、地元で若手を率いるチームを作った。)


オスカル・フレイレのように、兄が代理人、というケースですら、
進んでる!っていう感じに思えたほど。


育成チームに話を戻して、
ふるーい話をすれば、例えば以前のバネストの場合、
バネストのU-23チームに在籍してそれなりの成果を挙げていれば、
バネストでプロ入り、というのが当たり前だった。

アレハンドロ・バルベルデは、当初バネストU-23に所属したものの、
チームの拠点パンプローナが自宅から遠くていやだー、と駄々をこね、
ケルメのU-23に鞍替えした。

だからプロ入りもごく自然にケルメだった。


では、オンセにU-23チームはあったのか?というと、
オンセという名称ではないもののイベルドロラというアマチュアチームがあって、
これが実質オンセの育成チームの役割を担っていた。

このチームに所属していたのは、アルベルト・コンタドール、ホアキン・ロドリゲス、
ザビエル・フロレンシオたちだ。

全員オンセでプロ入りしている。

つまり、かつてスペインのU-23チームはその上のプロチームと
確固たるパイプを持っていた。


現在のモビスターの状況はどうかというと、
2000年代後半あたりからチーム「リサルテ」がモビスターの控えチーム的
役割を果たしている。


とはいえこのリサルテ、その前までは、一定のチームに染まっていない
きわめてオープンでユニークな若手チームだった。


かつては、ヨセバ・ベロキやイシドロ・ノサル、
比較的近年ではアンドレイ・アマドールが
在籍していた。

彼らはそれぞれエウスカルテル、オンセ、ケスデパーニュ(現モビスター)で
プロ入り。


つまり以前は、”各チームとお取引可能です”的なU-23チームだったのだ。
今ではオンセもエウスカルテルも解散し、スペインのWTチームはひとつになってしまい、
なんとなく自動的にモビスター御用達的な運命をたどったのだった。

2017.09.21 Thu | Road Races| 0 track backs,
ロード世界選手権の地ベルゲンの絵を四国で見る
中国四国への旅で、
東山魁夷せとうち美術館へ行ってきた。

所蔵品を交代で展示しているので、どの絵が見られるかわからず訪問。
今期の展示は北欧の旅のシリーズだった。

その中に1枚、今年のロード世界戦の地、ノルウェーのベルゲンの絵を見つけて
思わず声をあげそうになった。
こんなところでロードレースにまつわる何か(?)を見つけるなんて。


展覧会ポスターにもなっているのだけど、なかなかかわいらしい街だ。

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魁夷さんは、ベルゲンの倉庫群に魅了されたようだ。

70年代後半に世界遺産になった場所だけど、魁夷さんが訪問したのは1960年代のことなので、
まだ世界遺産指定は受けていなかった。

日本人観光客もほとんどいなかったに違いない。

2017.09.17 Sun | Road Races| 0 track backs,
アルベルト・コンタドール引退 2003年以来のニュース総動員 その14
ニュースの時系列が前後するけれど、
コンタドールがツールで初優勝を挙げたのは2007年。


その1年前の2006年、私は雑誌記事の中でコンタドールをツールの新人賞候補の筆頭に掲げた。
それまでグランツールは1度しか走ったことがなく、2005年ツールでは31位。
でも、急速に力をつけているのは明らかで、目を付けていたのだ。


コンタドールは2006年ツールのメンバーにめでたく選ばれた。
お手並み拝見といったところだったが、予期せぬ出来事が起きる。

コンタドールが属するヴュルト(リバティセグロスがスポンサーから撤退)は
ツールのチームプレゼンには出たものの、グランデパール前夜にチームごとツールから締め出されれ、
コンタドールの出場は幻となったのだ。(注1)

チームの監督マノロ・サイスが、2006年5月に勃発したドーピングスキャンダル、オペラシオン・プエルトの首謀者とされたためだ。


ということで、私の新人賞予想は大外れ。
これに凝りて、翌2007年のツール予想にコンタドールは入れなかった。


ところがふたを開ければコンタドールは総合新人賞を獲得。
のみならず総合優勝まで手に入れてしまった。

予想が1年早かった、自分・・・とハズレを大いに嘆いたのを覚えている。


下の写真は、2006年、ツールからチームが締め出しを食らう直前の
チームプレゼンのときのアルベルト・コンタドール。

ちなみにジャージのメインロゴはアスタナ。
リバティセグロスがオペラシオン・プエルトに怒ってスポンサーを降りたため、
政界財界にパイプを持つヴィノクロフ選手がアスタナの地場産業界を担ぎ出し
急きょ資金援助をとりつけたのだった。


(注1)つまり、上記と先日のニュースを総合すると、アルベルトは2回、ツール出場を主催者から阻まれている。
2006年はリバティセグロスの後を急きょ継いだアスタナ・ヴュルトが5月に勃発したオペラシオン・プエルトのせいでツール前日に追い出され、
2008年は前年のヴィノクロフのツール陽性反応の余波で彼が所属していたアスタナチームはツールに選出されなかった。


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2017.09.13 Wed | Road Races| 0 track backs,
アルベルト・コンタドール引退 2003年以来のニュース総動員 その13
2007~2009年前半にかけてコンタドールは急速に進化し、
トクダネニュースの常連になった。

けれど2009年ツールのニュースは、暗い話が多かった。
総合優勝したにも関わらず。


アルベルトはかつてランスにあこがれて、部屋にポスターまで貼っていた。

けれどランス・アームストロングがアスタナで復帰することになり、
図らずもチームメイトになったとき、憧れの人は敵意の人になっていた。

2009年ツールの際中、ランスはコンタドールの足をひっぱるような行為に及ぶ。
ダブルエース体制が気に食わなかったのだ。

ランスは会見でこう語った。「コンタドールとの間に、確かに緊張感はある」と。

2009年ツールの時期のトクダネには、ランスにアルベルトがいびられる話などがたびたび入った。
さしものコンタドールもしんどかったようだ。

ツール終了後、コンタドールの代理人である兄のフランは、アスタナからの離脱を発表。
そのあたりのニュースはあまり記憶になかったので、以下再読してみることにする:


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■ 2009.08.01 (Sat)  流浪の民?アルベルト・コンタドール 
■ 元バネスト銀行頭取も関与するフェルナンド・アロンソの新チームにいく可能性は ・・・?


アルベルト・コンタドールの兄弟で現在代理人を務めているフランが発表したところによると、アルベルトは来季末まで締結されているアスタナとの契約を解約することを決め、2010年は別チームで走ることにしたという。

謹慎処分明けのヴィノクロフがアスタナに戻ってブエルタにさっそく出るという話もあり、ランスが別チームに移籍しても、エース争いの確執に終わりはない。「アスタナに恨みがあるわけではない。ただ、今季アルベルトは精神的に疲弊した。落ち着いた環境で走らせてやりたい」と。

アスタナは、コンタドールに来年から4年契約をオファーした。
ヴィノクロフが本チームで復帰したとしても、エースはコンタドールに、というアスタナの呼びかけも彼にはアピールしなかった。

今年のようにチーム内でエース争いが激化する可能性が残っているし、カザフスポンサーの金銭問題に光が見えてきたわけでもない。給与未払いという前例もある。


そこで気になるのはコンタドールの移籍先。
2009/7/14トクダネニュースに入れたとおり、F1ドライバー・フェルナンド・アロンソが新チーム設立を目指す中、それがもし実現すれば、コンタドールはアロンソが是非ともほしい人材のはず。

現在の構想では、メインスポンサーはルノー、そのほかスペインの有力銀行サンタンデールが入っている。


実はこの銀行の副頭取アルフレド・サエス氏、93年から2002年まで、デルガドやインドゥラインを中心とした一時代を築いたチームのメインスポンサーであるバネスト銀行の頭取を務めていた人物

実際モナコに姿を現したアロンソは、コンタドールに新チーム話をもちかけている。
が、どうやらコンタドールとしては、現在プロツールチームとして体制がしっかりできあがっているチームで走りたいという希望があるらしい。

これ↑は、コンタドールのチームメイトであり親友のベンハミン・ノバルが漏らした内容。信憑性があるのでは、と見られている。ノバルは同じアストゥリアス出身のアロンソとも親しい間柄なのだ。


■ では、ケスデパーニュ?

コンタドールには、ケスデパーニュとガーミンのオファー話が聞こえてくる中、前者の場合、バルベルデの年俸がはねあがっているだけに、金銭的に問題ないのか気になる。


さらに、コンタドールが移籍すれば、ツールではエースにせざるを得ない。バルベルデをサイドラインに押しやることになる。けれどこれは、チームに貢献してくれたバルベルデを失望させない、というウンスエ監督のポリシーに反する。

過去、デルガドを買い戻すために多大な損失をした経験があるバネストの元監督ウンスエとしては、見込んだ選手をないがしろにするとキツイしっぺ返しがくるのを知っている。

だからバルベルデだけはなんとしてでも放出しない。
Tモバイルからの巨額のオファーがあったときも、金策を尽くして守り通した、という談話を読んだことがある。


ただ、バルベルデはイタリアのレースには実質出られない。去年ツールのイタリアステージで行った血液検査の結果、彼の血液はオペラシオンプエルトスキャンダルで押収された血液と合致しており、CONIはバルベルデが領土を踏むことを許していない。
(来年、もしツールが再びイタリアを通過する場合、バルベルデは再び出場不可となる公算が大きい。10月末のツールルート発表が気になるところ。)

すなわち、コンタドールをジロに出す、という手もある。けれど彼は、ツールの方に執着がある気がする。


そのほかラボバンクの話もあるけれど、メンショフはどうなるのか?などなど。

ツールを絶対的エースとして走ることができ、多大な予算確保は万端で、チーム力が確立しているところ、どこかあるだろうか?
2017.09.13 Wed | Road Races| 0 track backs,
アルベルト・コンタドール引退 2003年以来のニュース総動員 その12
ブエルタも終わり、コンタドールは引退。

過去のアーカイブ読み返しは昨日の段階で終える予定だったものの、
2008年コンタドールがエル・アングリルで優勝した時のトクダネNewsの記事が出てきたので
それを掲載することに。
(詳細なレース状況は、いまはアップ中止中のレース便りのほうにアップ。そちらは現在配信停止中。)

なお、その間掲載したコンタドールの記事には、コンタドールがアスタナに移籍したこと、
しかしアスタナのアレクサンドル・ヴィノクロフが2007年ツールで陽性反応を出したことが尾を引き、ツール主催者からチーム丸ごと選出されなかったという悲報などが含まれていた。

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■  ブエルタ : 真のクライマーを決定するエル・アングリル4人目の勝者はアルベルト・コンタドール 
2008.09.14 (Sun) 

■ エル・アングリルの初回登場は99年、話題性の割にはまだ今回で4回目
■ 1935年開始以来、ブエルタ御用達の山といえばすでに15回以上登場のコバドンガ
■ かつてはビルバオやサンセバスティアンが最終日ゴールだった


1999年、ブエルタのルートにアストゥリア地方のエル・アングリルが初めて組み入れられることになったとき、スペイン国内各所から驚愕の声が上がっていたのを覚えている。

12kmにわたり平均斜度10.5%、クエニャ・レス・カブレスの区間が最大となる23.6%。

99年、その初回エル・アングリルをチャバことホセ・マリア・ヒメネスが制して、観客が歓喜乱舞する中ブエルタは大成功に終わったものだから、主催者は味を占めてしまい、翌年もルートに組み入れた。

2000年はジルベルト・シモーニ、2002年はロベルト・エラスがここで優勝を飾るのだが、あまりに過酷で、雨が降って路面が滑ると足をつく選手が続出。批判も相次ぎ ここ最近では除外されていた。

しかし今年、つまり2008年、たぶん停滞気味で2週間短縮説まで出ているブエルタをなんとか盛り上げようという意図なのだろう、主催者はエル・アングリル復活で起死回生の勝負に出た。

果たして結果はーーー


真のクライマーのために捧げられた”この山で、4人目に一級品のクライマーであることを証明したのはアルベルト・コンタドール。

若さゆえの勢いで一気に爆発的に駆け上がる、というより、他のライバルたちの動向を計算しつつ、落ち着いたレース運びだった印象だ。

エル・アングリルは、ほかの山とは違う。優勝すれば、その名はブエルタの歴史の一ページに半ば伝説の人のような感じで刻まれる。

さらに、ここでたとえ区間優勝はできなくとも、この地で総合優勝を決定的にした者ですら、殿堂入りを果たすことができる。2000年のエラスがそうであったように。

===

アストゥリアス地方には、いわゆる美味しい山がたくさんあり、中でもラゴス・デ・コバドンガがブエルタではすでに15回以上登場し、98年以前は誉れの高い山という位置付けだった。

しかし型破りなエル・アングリルが、それまでの山の格付けを一気に崩してしまった。エル・アングリル、とその他の山、といった感じで。

昨夜、沿道の観客の狂おしい応援ぶりを見ていて、危なっかしくてハラハラしたものの、やはりこの山は格別なんだ、そういう思いを新たにした。


==== ブエルタ過去登場回数トップ6 ====

以前ブエルタの観戦ガイドにも書いたことがあるけれど、過去一番登場回数の多いのは、マドリード。その次はバルセロナ、サラゴサ、ビルバオ、サンタンデール、サンセバスティアンの順。

今では治安問題もあり敬遠されているバスク地方だが、かつてはビルバオやサンセバスティアンなどはブエルタの常連で、ビルバオは50-60年代、サンセバスティアンは70年代、最終日ゴールの地として選ばれた。


==== 昨日のレースに想う ====

・ バルベルデ、上りで一旦アタック仕掛けたかれど、コンタドール、落ち着いていた。
・ やっぱり出ましたピストル・バンの十八番ポーズ By コンタドール。

・ 観衆と衝突しやしないかと気が気ではない。なんだか暴力的なぐらい沸きかえっている。
・ 護衛のため治安警察グアルディアシビル登場。時折選手らに併走して小走りでファンを追い払うも、焼け石に水状態。

・ エル・アングリル、ここはアストゥリアス地方。青地に黄色い十字架の旗が目立つ。
・ ロドリゲスも頑張ったけれど、バルベルデのアシストをするまでは脚が残っておらず。
・ 何気に上位だったツァウク。
・ 見ごたえがあるのは、なにも先頭争いばかりじゃなく、エル・アングリルで難儀する選手たちの様子。もっと映してほしいな。

ツールの最中出会ったエル・パイスの記者に、コンタドールとバルベルデ、どちらが人気か聞いたら、「ジロで優勝して以来コンタドール」と言っていた。ブエルタでバルベルデが優勝すればイーブンに持ち込める可能性もあったけど、今日のエル・アングリルの走りを見たら、コンタドールの人気、さらにアップかな。


Photos: 昨年ツール 及び05TDRにて コンタドール
2017.09.12 Tue | Road Races| 0 track backs,
アルベルト・コンタドール引退 2003年以来のニュース総動員 その11
2004年5月の海綿状血種発覚以来、
リアルタイムでその様子を追ってきたアルベルト・コンタドールに会えたのは、
発作から1年後の2005年5月のことだった。

22歳のアルベルト。

conta.jpg 


山岳では1勝し、溌剌と輝いていた。

conta3.jpg 


とはいえまだ未熟な面も見受けられ、最後の20.4km ITTでは、
心臓の音がバクバクこちらまで聞こえてきそうなぐらい緊張していた。
(聞こえたように実際感じた)。

それもそのはず、最終日スタート時点で総合4位につけていた。
わずか6秒差で3位のメンショフや19秒差で首位のダミアーノ・クネゴより抜きん出れば
逆転で表彰台、という場面。
(さすがに総合2位にいたサンチャゴ・ボテロを逆転するのは難しいと思われたけど。)

ところがメンショフよりはわずか2秒上回ったのみ。
クネゴよりは30秒近く遅かった。
結局総合4位にとどまった。

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そんなロマンディ一周のレポートのうち、
以下、コンタドールが優勝した山岳ステージのレポートから。


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病気発覚の1年あとにツール・ド・ロマンディ でコンタドールに会う

2005年4月30日:第4ステージ シャテルサンドニ~レパコ  レポート
クネゴは本気で勝ちに行っていた


1000m級の山頂レパコは仮スタート地であり、ゴール地点。さらにその後2度ここを通るので、迷わず山頂に行き、自転車に乗って観戦にきた日本人の人にお会いした。
北米のツール・ド・ジョージアを見たあとこちらにきたという。レース三昧の日々。


レースは最後まで誰が勝つかわからなかった。ラスト数キロでピエーポリかと思った。
ぐんぐん差を広げると思いきや、捕まった。
ラスト1km、脳の血栓の病気からよみがえったアルベルト・コンタドールが鳥のように羽ばたいた。

大型スクリーンが目の前に見えるゴール地点にいたので上りのスタート箇所の選手らの様子も見ることができたのだが、アルベルトの軽やかな身のこなし、加速力は驚きだった。
そして若々しくはつらつとしたポーズでゴール。


この日はたまたまスタート前にコンタドールを見かけたので話し掛けた(上の写真)。
去年の病気のこと、両親がチームに感謝した手紙を雑誌に掲載したことなど。
終始笑顔が印象的だった。その5時間弱後に優勝した。

総合の方では、クネゴがなんとかボテロとの2秒差をひっくり返して総合首位に。


レース後、ゴールそばのカフェのテラスの椅子に崩れるように座ったクーネゴ。
相撲の取り組みが終わった直後のお相撲さんのように、ものすごい勢いでゼーゼーいっている。もう目一杯という感じ。

スタッフがいろいろとケアする中、何か言おうとするが言葉にならない。タオルに顔をうずめて、「きつかった、、、」といった感じでスタッフに身振りで伝える。
いかに彼が必死でリーダージャージを狙いにいったかがよくわかった。

クネゴはジャパンカップでは優勝できずに批判もあったようだが、ロマンディでは、エースとしての意地を十分見せた。昨日は山岳ステージで優勝したが、その分、今日はハンデがあったのか。ゴール後、完全にコンタドールよりも疲労度が大きかった。


しかし、明日の最終日はTT。クーネゴがリーダージャージをとったものの、総合優勝は、まだボテロに勝機がある。
TTで、再度ボテロが逆転する可能性が高い。

(注:そして最終日はやはりボテロが制し、総合優勝。)


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2017.09.11 Mon | Road Races| 0 track backs,
アルベルト・コンタドール引退 2003年以来のニュース総動員 その10
2004年5月の発作、6月の手術を経て、
2005年1月の復帰早々にダウンアンダーで1勝。
3月セトマナ・カタラナで1勝と総合優勝、
4月バスク一周で1勝と速攻で全開モードになったコンタドール。

2003年でプロになり、発作の前にはポーランド一周で1勝したぐらいで
目立った成績はなかっただけに、まさに新生コンタドールといった様相だった。

個人的に、復帰後にここまでの活躍を果たすなどとは、予想だにしていなかったけれど、
2005年1月にダウンアンダーで優勝を遂げる2日前及び前日に、
トクダネでコンタドールの両親からの手紙の話に触れた。

雑誌の記事との兼ね合いで手紙の公開は遅らせたものの
2月のトクダネで全文公開したのだった。

自分にとって、コンタドールを強烈に印象づけたのがこの両親からの手紙だった。
コンタドールがらみの記事の中では一番思い入れの強いエントリーだといっていい。
以下、その時のアーカイブから。


p.s. 2017年ブエルタ・アングリルSTでのコンタドールの優勝や
先導・護衛役のおじさんの必死の形相といった前夜の余韻に浸りつつ。


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■ コンタドールの両親、自転車雑誌に投稿する
2005.01.20 (Thu)

2004年のことだ。
コンタドールの手術が無事に成功した報に胸をなでおろした後、
それから暫く経って、スペインの雑誌「Ciclismo a Fondo」をぺらぺら読んでいたところ、
ふと、読者の投稿ページに目が留まった。

1つの投稿の送り主名に、「アルベルト・コンタドールの両親より」と書かれていた。
息子の生命の危機にあって、我が事のように支えてくれた監督・チームスタッフに、両親は雑誌を通じてお礼が言いたかったという。

コンタドール家の家計は苦しく、コンタドールの治療費はチームが出費している。
それに対するお礼だった。

前回書いた通り、弟の世話をするため父は仕事を辞めている。
母の市役所勤めで食べ盛りの4人の子供たちを支えてきた。
生活は楽ではなかった。


「Ciclismo a Fondo」には、家族集合写真も載っていた。

脳性麻痺でハンデを負う弟のラウルを中心に、
父のパコ、母パキ、兄フラン、姉のアリサ、弟のラウルが
つつましい自宅の一室でカメラの方を向いている。

その記事にはこうも書かれていた。

そんな日々の生活の中で、アルベルトの唯一の気晴らしは鳥に餌をやることだった。
ベランダで餌をやりながら、大空をはばたく鳥たちの自由さにあこがれたのだという。


両親からの手紙の内容は、雑誌サイスポのニュース記事の方で少し触れたいので今すぐには公開しないけれど、来月にでも訳して載せたいと思う。



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■ アルベルト・コンタドール(リバティー・セグロス)両親からの手紙全文 
2005.02.21 (Mon)  

先月のTDUの時にコンタドールの話を随分取り上げた。
去年レース中に脳障害を起こし意識を失って落車。
即座に病院に運ばれ、サイス監督はレースを置いてコンタドールに付き添った。

コンタドールは無事に回復し、彼の両親がスペインの雑誌に投稿してチームや監督に感謝の気持ちを述べた。(Ref:2005.01.20、2005.01.22 トクダネ) 

この内容の一部は2005年2月号のサイスポ「海外Expressにも入れたが、サイスポ次の号が発売になったこともあり、ここで全文ご紹介。

監督やチームドクターがいかに必死で家族を励まし、わが事のように悲しんだかがよくわかる内容だ。

「支えてくださった全ての人たちにお礼が言いたくて筆をとりました。
テラドス先生(*)アストゥリアスの中央病院で何時間も何時間も、ずっと息子のそばに付き添ってくださって、ありがとうございました。

(* 注釈:テラドス先生=リバティーのチームドクター。元オンセ。未知谷の「ツールドフランス物語」p.241 <ドクターは語る - ニコラス・テラドス>の主人公となった人)

回復期、及び転院した際はルイス・マンサノ先生にも大変お世話になりました。
世間のみなさんには余り知られていないことですが、何よりもマノロ・サイスさん(注:リバティセグロス監督)、貴方には本当に本当にお世話になりました。


監督、貴方は息子に付き添って、救急車に乗り込みました。
レースの途中だというのに。

夜間、鳴り止まない携帯電話にも、全て応対していました。
嵐の日も、私たちの傍に付き添うために駆けつけてくれた。


貴方は、私たちに付き添うために、自分のご家族と一緒にいる時間を奪われてしまった。
それにもかかわらず、貴方はずっと息子の傍にいてくれた。
そして、私たちと一緒に泣いてくれましたね。

最悪だった時期もずっと一緒にいてくれました。
私たちの悲しみは貴方の悲しみでもあったのです。

最高の医療を受けられたのも貴方のおかげ。
息子のことをこんなにも大事に思ってくださってありがとう。
こんなに素晴らしい人物でいてくれてありがとう。こんなに暖かい人間味を示してくれてありがとう。」

---*----

いつもしかめ面ばかりしていることが多いリバティーのサイス監督。
時々切れるし、結構激情型だし。
でも、ヒューマニズム溢れた人でもあったようだ。

2017.09.10 Sun | Road Races| 0 track backs,
アルベルト・コンタドール引退 2003年以来のニュース総動員 その9
コンタドール関連のニュースアーカイブ続き。
病気から立ち直ったランスを崇拝していた、というコメント。

それにしても、憧れの人ランスが、のちになって嫉妬のあまり自分に牙をむくことになろうとは
よもや想像だにしなかったことだろう。

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■ コンタドール、力をくれたのはランス
2005.04.09 (Sat) 

今年TDUで区間優勝し、セトマナ・カタラナ総合優勝した若手のコンタドール(リバティ)。
さらに昨日のバスク一周でも最後のTTで優勝。

去年の5/12、アストゥリアス一周の最中に脳海綿状血管腫を起こして落車。
一時は重態とも言われた。

その彼が、最近スペインの新聞ASでのインタビューで、
「アームストロングの病気からの復帰が僕の大きな力になった」と語った。

その記事の中から、一部抜粋。


― 去年 病気になった時のことを詳しく教えて。

AC:症状は、アルコベンダスのレースで始まったんだ。(注:2日間で3ステージ走るレース。最終日は目玉のアルコベンダスの山岳TTがある。最近では、オラーノ、モンクティエ、ベロキ、マヨが歴代優勝者。)

もっとも数日前からひどい頭痛は感じていた。でも、僕はツールに向けて必死でトレーニング中だったから出場することにした。でも、レース中に力が出なくて、サイス監督に「調子が悪い」と言ってリタイアしたんだ。


― でも、その後、アストゥリアス一周に出たんだね。

AC:その直前にナランコのヒルクライムに出て、調子が上がっていたからね。でも、アストゥリアスの第1ステージで頭痛がまた始まった。そして、40km地点で、それが完全にはじけた感じだった。周囲の同僚の声が聞こえなくなって、そのまま倒れて痙攣が始まった。


― 診断は?

AC:アストゥリアスの病院では、血の塊が見つかった。但し、これが落車によるものなのかどうかが分からなかったんだ。で、とりあえず僕は10日で退院した。


― で、また症状が始まったんだね。

「家に戻って15日目に、また痙攣が始まったんだ。ラモン・イ・カハル病院に運ばれて、検査をしたんだ。そして手術さ。頭頂部を切って、70箇所ホチキス縫合した。チタンのプレートを2箇所に入れたよ。でも回復は順調さ。」


― 自転車に再び乗るのが怖くなかった?

AC:いいや。先生達が大丈夫だ、って言ってくれたから。車に乗るのと同じように自転車に復帰できた。


― でもって、ランスの著書「ラ・ブエルタ・ア・ラ・ビダ=生への帰還(「It’s not about the bike」のスペイン語タイトル、日本語タイトルは、「ただマイヨ・ジョーヌのためでなく」)が支えてくれたんだって?

AC:本は、病気の前に読んではいたんだ。でもその時は、本の中に登場するツールのことにばかり関心が行っていた。でも病気の後に病院で再度読んでみて、彼の回復への意欲に吸い寄せられた。そして、彼の前例に力をもらったんだ。


― ランスとは言葉をかわした?

AC:パリ~ニースで見かけたけど、彼はかなりナーバスだったから話す機会はなかったんだ。でも、彼とは話してみたい。だって僕のアイドルだから。


― その他支えになったのは?

AC:家族と友人は、いつも勇気づけてくれた。そしてチーム。普通プロのチームといったら、契約金額だけでの繋がりが常なのに、こうしたハートのあるスタッフたちにめぐり合えたことは、信じられないぐらいだ。


― 病気が教えてくれたことは?

AC:自分自身成長したと思う。全てのことがらの価値が、今までに比べて増したと思う。入院中、例えば単に公園を散歩することができるだけのことでもすごく大きなことだった。これからは人生100%めいっぱい生きていきたい。


(以下写真は上記インタビューとは別。昨年コンタドールが回復した時の雑誌Ciclismo A Fondoの記事。)

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2017.09.09 Sat | Road Races| 0 track backs,
アルベルト・コンタドール引退 2003年以来のニュース総動員 その8
2004年6月の脳外科手術の半年余り後、ダウンアンダーで優勝したアルベルト・コンタドール。
続く3月にはセトマナ・カタラナ、4月にはバスク一周でも優勝した。

セトマナ・カタラナは2005年でレース打ち切りになったので、
最後の優勝者がアルベルト、ということになる。

再び2005年のニュースアーカイブから。

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闘病時代、アームストロングの前例が僕を支えてくれた。
2005.04.09 (Sat)  

脳には70のホチキス縫合。
2つのチタンプレートを埋め込んで、新生アルベルト・コンタドール が誕生した。

TDUに続き、3月にはセトマナ・カタラナで総合優勝。
そして4月には、バスク一周の最終ステージITTで優勝してしまった。
最終総合順位も3位だ。

前日木曜までは総合14位だったのだが、午前中のショートステージで5位、午後のTTで1位になり、一気に表彰台。これにはチーム関係者も喜んだことだろう。

バスク一周での抱負を聞かれて、コンタドールは木曜日 第4ステージの日に、こう語っていた。

「明日の最終日(午前中のショートステージと午後のTT)が一番きつい。なんとか前に前に出たいと思う。カギは、最後のTTをやっつけることだ。」

全くその言葉通り、TTでトップタイムを叩いて逆転で表彰台を射止めた。

実はこのTT優勝の報道を聞く前に、ブログ用に用意していた記事がある。
コンタドールが闘病時代にランスの本に励まされたというものだ。

その内容を抜粋してみたいと思う(続く)
2017.09.09 Sat | Road Races| 0 track backs,
アルベルト・コンタドール引退 2003年以来のニュース総動員 その7
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2005年1月22日
◆  速報!おっと初復帰レースでコンタドールが優勝したらしい! 


1/20のトクダネに掲載したコンタドールが優勝しました!

嬉しい誤算だ。まさか彼が復帰最初のレースで優勝するとは。マドリッドの両親も、喜んでいるだろう。先日20日にトクダネでお伝えしたアルベルト・コンタドールがなんとTDU第5ステージで優勝した。去年アストゥリアス一周の最中に脳から出血。気を失って落車にあい、その後奇跡のカムバックを果たしたあの選手だ。

5月に入院し、2ヵ月後に歩行練習を始めた。6ヶ月間療養し、彼が入院以来初めてバイクに乗ったのは11月17日。当然ながら、まだスタミナも全然なかった。それからまだ2ヶ月しか経っていない。若さゆえだろうか。


彼は退院後、こんなことを言っている。「今シーズン優勝して、ものすごくよくしてもらったチームと、支えてくれた家族に優勝を捧げるのが夢だ。」そしていきなり、復活最初のレースでそれが達成できた。

<コンタドールが華々しく大活躍する場は期待できないと思う。>などという予測は大ハズレ。しかも今日のレースではリバティーが1位から4位を独占。まるでTTTのリザルトのようだ。

現在総合トップのサンチェス、もう一人の優勝候補デイヴィスらチームメートは、絶対コンタドールを勝たせるために頑張ったと思う。先日レース便り(注:2017年現在配信停止)TDU 第3ステージの記事に掲載したとおり、現在総合首位のサンチェスは、ケガでコンタドールが病院に搬送された日、コンタドールのためにがむしゃらに優勝をもぎ取った選手だ。

今日のレースは、サイス監督のいう民主主義のチームというのが、本当によく表われていたレースだった。

アルベルト・コンタドール
1982年12月6日生まれ
独身、彼女の名前はマカレナ
好きな食べ物:家で食べるじゃがいものオムレツ
好きな飲み物:アクエリアス
好きな映画:ライフ・イズ・ビューティフル
読書:スポーツ紙と動物の雑誌。特に鳥が載っている本。
好きな歴史上の人物:ナポレオン


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この写真はスペインの雑誌Ciclismo 2004年10月号。
ということは実際のインタビューが行われたのは2004年8月頃だろうか。
アストゥリアス一周で発作を起こしたのは2004年5月。
ダウンアンダーで復帰したのは2005年1月。

記事の中で、「5月のレースで落車した時のことは覚えていない」と語っている。「ただ、スタート時雨が降ってすごく寒かったのを覚えている。」また、既にからだの方は良好で、2005年シーズン最初からレース復帰できる、と書かれている。

2017.09.07 Thu | Road Races| 0 track backs,
アルベルト・コンタドール引退 2003年以来のニュース総動員 その6
2004年の5月に2度の発作を起こし、困難な手術に挑んだコンタドール。
手術は成功。
徐々に自転車に乗り始めるようになった、というニュースが入ったのは
その年の秋のことだった。
完全復活までにはかなりの時間がかかると思われたが、
それは想像以上に早い時期に実現した。

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2005年1月20日
◆ コンタドール奇跡の復活

昨年暮れ、リバティー・セグロスのTDU(ツアー・ダウン・アンダー)出場暫定メンバーが発表された。
その中の1つの名前に引き寄せられた。
アルベルト・コンタドール。
脳疾患で、一時危篤説が伝えられた選手だ。遂にTDUでカムバックすることが決定。嬉しい知らせだった。
現時点でTDUは、第1、第2ステージが終わり、マキュエンがダブル勝利している。
今後も地元オーストラリア選手のスプリント合戦中心に展開するだろう。
コンタドールが華々しく大活躍する場は期待できないと思う。
それでもきっと、悪夢から抜けて明るい太陽の下でぺダリングできることに、
大きな喜びを感じているに違いない。


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2005年1月20日
◆ 朝のニュースの補完・イヴニング・ニュース :
ツアー・ダウン・アンダーTDU 第3ステージでサンチェス再び


なんと!すごいタイミング。TDUでのコンタドール復帰のニュースを入れた今朝のトクダネは、
なかなかグッドタイミングだった。
TDU第3ステージでコンタドールのリバティーの同僚、LLサンチェスが優勝したのだ。

サンチェスといえば、去年コンタドールがリタイアしたアストゥリアス第1ステージで区間優勝した選手!

サンチェスはアストゥリアスのレース中、コンタドールがリタイアしたことを知り奮闘したという。
そして見事に優勝。病院にいたコンタドールに捧げた 。

その時のサンチェスの言葉:
「仲間が落車で病院に運び込まれたと知っていた。
この優勝は彼のもの。同僚として、一人の人間として、彼にこの優勝を捧げたい。」


そして今年のTUD 第3ステージでも、再びサンチェスが優勝。
展開はなかなかスリリングだった。

総合2位のアラン・ディヴィス(リバティ)をアシストするために、
逃げのグループに加わっていたサンチェス。
しかしデイヴィスはスチュアート・オグレイディのマークがきつすぎた。
2人が牽制している間に、サンチェスは飛び出し、ヴァンスーメレンをかわして優勝したのだった。


これは、サイス監督のルールブック通りだ。サイス監督は、独特の采配で知られている。
リーダー選手を決して固定しない。チャンスがあれば、自由自在に勝てる選手を勝たせる。
そのフレキシブルなやり方で、ゲットした虎の子の一勝だ。

ともかくこの勝利は、コンタドールを勇気づけたに違いない。
2017.09.06 Wed | Road Races| 0 track backs,
アルベルト・コンタドール引退 2003年以来のニュース総動員 その5
アルベルト・コンタドールのニュースアーカイブその5。
自宅に戻ってから再び発作を起こしたコンタドール。

手術をしなければ命が危ない、
しかし困難な手術であるため、麻痺などの障害が残る可能性もあった。

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◆ 手術は無事成功
(以下は、2004~2008年にかけてエントリーしたものを総合したもの)

チーム関係者に説得され、両親は手術を承諾した。
こうして2004年6月11日に行われた手術は5時間に及び、
縫合は70針、頭部には2枚のチタンが挿入された。


その間、予断を許さない状態が続き、病院に駆け付けたサイス監督は家族と一緒に泣き、
そして両親を励まし続けた。

サイスはその時のことを振り返って、「自分の家族より、重傷の選手のそばを選んだ」と
語っているる。


執刀医のマリア・アウロラ・マルティネスは、
患者アルベルトのことを当時知らなかった。

無理もない、アルベルトは弱冠21歳。
アレハンドロ・バルベルデ、イバン・マヨ、サムエル・サンチェス
のようにアマチュア時代から名を馳せてきたわけでもない。
アルベルトの地元マドリード(アルベルトの出身は具体的には大きな意味でマドリードに属するピントという街)在住の人たちにとっても、ほとんど無名の存在だった。


偉大なサイクリストの命を救ったのだ、
と彼女が気が付いたのは、それから数年後のことだった。

退院前、彼女はアルベルトにサインをねだった。
しかしそれは、この先大化けすることを予想してのことではなかった。
新たな命を吹き込まれた新生アルベルト誕生の証として、求めたものだった。


こうして無事手術は成功。
レース中の落車が再びアルベルトの生命を脅かすのではないか
そんな危惧もあったが、本人は、その年の秋にはすでに
トレーニングを開始していた。

2017.09.05 Tue | Road Races| 0 track backs,
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