スキージャンパー時代のプリモシュ・ログリッチェ
高梨沙羅ちゃんが50勝目を達成した瞬間、TVで見ていた。

ふと、思い出したのがロット・ユンボのログリッチェ。

「2007年スキージャンプJr世界戦の団体優勝メンバー」
(引用:チクリッシモ選手名鑑2016年版 29頁のAsakaさんの文)
だったそう。

以前Cycle Sportに出ていたのがこの写真。
現役時代、こんな感じだったのか。

IMG_3326.jpg


わが夫のツーレはクロカンをやりながら
ジャンプにプチ挑戦したことがある。

30m級はなんとか立てたものの
40m級は一度も立てなかったらしい。

それが70m級とか、ありえない世界、なのだそう。


そんなテクニカルなスキージャンプで成績を残しつつ
ロードに転向とは、珍しいケース。

競技人口的にはロードレースの方が
狭き門、なのではないのだろうか。
2017.01.30 Mon | Road Races| 0 track backs,
アーカイブ更新情報と、2002年2月22日のロードレースアーカイブ
2002年2月25日のニュースを以下にインプット済み。


内容は、白髪が出始めたジャラベールの選手としての進化の話 

http://blog.livedoor.jp/maillotblanc/

それから、2002年のバレンシアツアーのお話は、以下に記載: 

 ***** 

2002年2月20日のバレンシアツアー第4ステージには、リカルド オチョアが車に轢かれて死亡した事故現場がコースに含まれていた。スタート地点のルセナから141.6キロ地点だった。第4ステージ区間優勝を飾ったハビエル パスカル ロドリゲスは、レース後、
「あの事故現場の地点を通過したとき、胸にぐっと熱くこみあげるものがあった。」と語った。

ゴールに入った瞬間、天を指差しオチョアに合図を送ったロドリゲス。ケルメ時代、彼はオチョア兄弟とは無二の親友で、互いの家を行き来した仲だった。事故のあった2月15日から1年後、ロドリゲスは、堂々と胸を張ってリカルドに優勝報告をしたに違いない。

彼はゴールしてから、リカルドの彼女インマと抱き合い、そして、ポイント賞のツァベルは、オチョアの父にポイントリーダーの花束を捧げたのだった。

ロドリゲスが、優勝を捧げたのは、実はオチョアだけではなかった。他に2人、優勝を捧げた人がいる。まず、チームのメカニックであるカルロス ビダレス。彼の奥さんアナが、先日亡くなった。それから、最近亡くなったジュニア時代の監督だったマンサニヨ氏にも、優勝を捧げた。

自転車レースは、サッカーなどに比べると、何故かとてもEmotionalなスポーツ。

人々はみな、ゴールを目指して走るだけ、丁度サッカー選手がゴールめがけてボールを蹴るように、そして、野球選手がひたすら打ったり投げたりするように。


だけど、自転車選手のレース後のインタビューは、野球の試合後インタビューとは全然違う。「ファンのみなさん、応援ありがとうございました!」だけでは終わらない。様々な選手が様々な思いを胸に走っていて、悲喜こもごものうちに展開する、まさにスポーツのロードショー。
2017.01.29 Sun | Road Races| 0 track backs,
オチョア 事故から1年 明らかになった事実
以前のニュースのアーカイブを今は亡きInfoseekからライブドアブログに移行する作業をしているが、ニュースが長いためライブドアの方に敢えて移行しなかったオチョア兄弟の事故に関するニュースを、こちらに掲載してみることに。

ニュースリリースの日付は2002年2月16日。事故からほぼ1年経ったときのこと。

オチョア兄弟の事故から1年が経ち、当時のニュースではカバーされなかった詳細がぽつりぽつりと出始め、改めて事故の大きさを思い知らされたのを覚えている。


特に、昏睡状態だったハビエルについて、医師からは葬式の用意をするよう提案があった、とか
院内感染のせいで肺切除せざるを得なくなった、とか、
事故直後、双子で顔が似ているため、どちらが亡くなったのか混乱があった、とか。

本当に改めて痛ましい事故だった。


==== オチョアの事故から1年後、明るみになったニュース ====


2002.2.16のトクダネから:

2001年2月15日、夜19:40、バスク地方のオチョアの両親のもとに一本の電話が入った。リカルドとハビエルの双子の兄弟の片方が死亡、もう片方が重態という知らせだった。

しかし、両親にも、病院関係者にも、一体どちらが亡くなり、どちらが重態なのかわからなかった。顔が似ていて区別がつかないためだ。知らせを聞いて、父は訳もなく壁をぶんなぐったという。

一方、事故のあったマラガでは、オチョア兄弟の片方の彼女が、ふたりを判別するために病院に向かった。彼女は判別の鍵を知っていた。ハビエルの方は、胸にほくろがある。亡くなったリカルドは、その直後に開催されるブエルタ ア アンダルシアに出走予定だった。しかし、リカルドの死で、ケルメはレース出場自体をとりやめた。誰も走る気力が湧かなかった。

1年経った今、ハビエルが少しずつ、自分の言葉で心境を語り始めた。

リカルドがいなくて、もう二度と一緒にトレーニングをすることができない、もう二度と一緒に映画にも、旅行にも行けないんだ、それを自身に言い聞かせて、その状態に慣れるように努力している。

無常にも自分の人生は続いていくのだと実感していること、事故を起こしたボルボの運転手には、悪意は感じないが、それでも一生罪の意識を味わってもらいたいと思っている、などと。

ハビエルは、意識が戻った後、マラガの病院から途中でバスク地方の病院へ転院しているが、転院前の病院で両親はやるせない思いを味わっていたことが、このたび判明した。

マラガの病院のICUでハビエルの昏睡状態が続いていた時、医師は、両親に、「なぜ不必要に延命行為をして、病人を苦しませるのか?」と問いただし、「ハビエルの葬式の用意を始めるように」、と告げたというのだ。

両親は、くじけそうになりながらも 彼の生還を信じた。そして、昏睡後60日を過ぎてから、奇跡が起こった。ハビエルが意識を取り戻したのだった。しかし、病院に対する家族の不信を引き起こした事態が更に起きた。院内感染により、ハビエルは片肺の切除を余儀なくされたのだった。

先日スペイン国王と面談したハビエル。国王からどんな言葉をかけられたのかと聞かれて、「TVで見るよりもハンサムだね」と言われたそうだ。また、彼としては、「プロの自転車選手として再びカムバックするという希望は捨てていない。時間はかかるけれど、不可能ではない、と思っている。

でも、もちろん、チームケルメがノーと言えば、諦める」、とも。事故の後、スペインでは道路交通規制法を改正し、サイクリストを保護しようとする動きがある。

これについてハビエルは、「それは、プロ、アマ関係なく一個の人間としての権利だ。自動車を運転しているのが人間なら、自転車に乗っている人も人間。車の運転手は、自転車をモノとして扱わないで欲しい。自転車イコール人間なのだ、ということを忘れないでほしい。車と自転車の事故の場合、サイクリストは、とても弱い存在なのだ。」と述べた

現在、少々ふっくらしたハビエル。マラガの病院からストレッチャーで移送される時は、視線は宙を漂い、まだ完全に病人の形相だったが、今ではあの時の面影は全くない。

彼の満面の笑顔も復活した。将来マラガに別荘を建てるのが夢と語る。医師によると、彼の回復力の源は、強い精神力だという。それは、自転車競技の中で培われた精神力なのかもしれない。(上記内容は、2月15日付けスペインのスポーツ新聞各紙を総合して作成。)

2017.01.05 Thu | Road Races| 0 track backs,
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